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社会的XXX

生物的な性(Sex)と社会的な性(Gender)が別概念と認められるなら、年齢・肌の色・髪の色、あらゆる身体的特徴を「生物的」と「社会的」に分けて考えることはできないのか。

そうすれば実は、生物的には30代中盤の日本人男性である自分も、社会的には10代後半の褐色ブロンドの女性にもなれるし、50代前半の白人白髪紳士にもなれるかもしれない。

というより昨今は、「己の属性より己の行動で己を語れ」という風潮が見受けられるので、属性よりむしろなにをやったか=社会的に認知される行動のほうが重要な気がする。

どう見られたいかに応じて行動を変える=見られたい自分ができていく。

これはJavaというプログラミング言語に少し似ている。

Javaには、モノの特性をあらわす「クラス」という概念があるが、それとはほかに、モノのふるまいをあらわす「インターフェース」いう仕組みがある。

たとえば「ヒト」というクラスに対し、「イヌ(ワンと鳴く)」というインターフェースを与えたとする。する実体はヒトであっても、「イヌ」としての行動特性を備えているがゆえ、そのヒトを「イヌ」として扱える。

「ガーと鳴いたら、その実体はさておき、それは鴨なのだ」的な言われ方があるくらいだ。

おもしろいのは、「クラス」は唯一の親クラスしか持てないが、「インターフェース」はなにをいくら与えてもよい点。

実体がヒトであっても、イヌになりたければ「イヌ」インターフェースを持てばよし。「ネコ」も「ウマ」も「キリン」でも、いくらでも実装できる。(もちろんそれなりの機能を備える必要はある)

コレは実は、先に述べた「属性と行動」「行動で己を語れ」と同じ話。

自分の属性より、自分にどのようなインターフェースを実装するのか、つまりなにになりたくて、だからこそどのよな行動様式を取るのか。

つまりやはり「なにをするか」が大事なのではないかと思う。