放送禁止用語の厳しさが日本とアメリカでこんなにも違う理由
放送禁止用語ってありますよね。
テレビで誰かが言うと「ピー」ってなるやつ。
たいがいが汚い言葉や差別用語だと思うんですが・・・
日本って放送禁止用語、多すぎません?
参考 地上波の「放送禁止用語」の厳しすぎる自主規制のため「懐かしい過去の名作」は再放送ができない - Middle Edge(ミドルエッジ)
英語、特にアメリカにおける放送禁止用語事情と比べてみると、その多さや厳しさは圧倒的です。
そこで今回は、テレビの立ち位置や文化的背景の差をもとに、
を、ひもといてみたいと思います。
テレビ放送の立ち位置と考え方
放送禁止用語の話をする前に、前提として日本とアメリカにおける
- テレビ放送の位置づけ
- 視聴者のスタンス
の違いを見ていきます。
日本のテレビ放送は「公共のもの」
日本において、テレビは多くの人の視聴される公共性の高いメディアとして受け取られています。
実際日本のテレビ網はキー局が6つ(NHK、日テレ、テレ朝、TBS、フジ、テレ東)です。
数が少ないため、多くの人が同じ番組を見ることになります。
公共性が高いものと位置づけられているのはこのためだと考えられます。
アメリカのテレビ放送は「選んで見るもの」
一方アメリカでは「テレビは自分で選んで見るもの」という意識が非常に強いです。
主要キー局の数は11局。日本の6の倍ほどあります。
またアメリカではケーブルTVを契約することが一般的です。
そのため一般家庭で見られるテレビのチャンネル数は100以上にのぼります。
チャンネルの内容も実にさまざま。
- 料理番組の専門チャンネル
- 天気予報しか流さないチャンネル
- スポーツ中継100%
- 経済ニュースのみ
などなど・・・
また局ごとに支持政党があるのも日本と大きな違いです。
2016年のアメリカ大統領戦でも、テレビ局の単位でトランプ派とヒラリー派が別れていましたよね。
このように
- テレビ側は自由にコンテンツを提供するよ
- だから視聴者は好きなものを選んでね
というのがアメリカにおけるテレビのあり方です。
※とはいえ最近は動画配信サービスの台頭により「コードカッティング」という脱CATVの動きもあるそう
テレビ放送での失言の扱い
日本においてはテレビは公共性が高く、アメリカでは「嫌なら見るな」が普通。
ではテレビ放送に乗る言葉、特に失言について、受け取られ方に差はあるのでしょうか。
日本では局やスポンサーまで批判の的に
テレビ放送で失言があった場合、日本では「発言者が責任を取れば終わり」では済みません。
放送番組の責任者や放送局、スポンサーまでもが批判の的になります。
日本人はリスクを怖れすぎる
日本人は異常なまでにリスクを怖がる傾向があります。
何か問題が起こったときは、問題そのものの対処(What)を済ませるだけでは安心しません。
管理者責任(Who)や仕組み(How)まで踏みこんで批判し、是正を求めるのが普通です。
良いも悪いもなく、そういう文化なんです。
日本のテレビ放送は批判が連鎖しやすい
これはテレビ放送にもよく当てはまるもの。
たとえば生放送などのテレビ番組で出演者が失言をすると、「出演者けしからん」に加えて
- どんな番組運営してんだ
- 局としての管理責任があるだろ
- 信用問題だ
というところまで発展します。
ときには番組のスポンサー企業にまで飛び火することも。「こんなひっどい番組にスポンサーしてるなんておたくはなにを考えてるんだ」と。
番組MCのアナウンサーが失言にゼロ秒で反応し、「ただいま不適切な表現がありました、申し訳ございません」と謝罪をはさみこむのはこのためです。
アメリカでは「個人の発言責任」「表現の自由」が強い
一方のアメリカでは事情は異なります。
- 発言の責任は発言者にある
- 表現の自由は担保されているべき
という価値観が根強く、テレビで何か失言をしても失言の事実(What)とその発言者(Who)が主な批判対象です。
もちろんそんな発言をする人を不用意に登用した局に批判が集まることもあります。
しかしアメリカに長期滞在した経験のあるぼくの肌感覚では、日本ほどひどくはありません。
ニュースは番組ではなく記者のもの
これがよくわかるのが、ニュース番組での言い回しです。
アメリカのニュース番組では何かニュースを伝える際には必ず「(個人名)がお伝えしました」という一言が添えられます。
発言の責任の所在をハッキリさせるためです。
番組や局は表現の自由を守る義務がある
もっとわかりやすい例は、2016年のアメリカ大統領選におけるトランプ氏の演説です。
過激発言の目立ったトランプ氏。放送禁止用語レベルの言葉も発していたことは有名ですね。
にも関わらず、テレビ各局は目立った検閲をせずに放送していました。
その言葉が個人の責任において発せられたものだからです。
表現の自由を重んじる文化だからです。
放送禁止用語、日本とアメリカでこんなに差がある
日本のテレビは公共性が高く、責任問題の波及範囲が広い。
一方アメリカは放送する側も見る側も「自己責任」な側面が強い。
ではテレビにおける言葉のルール、放送禁止用語にも差はあるのでしょうか?
日米おのおのの事情を見てみましょう。
日本の放送禁止用語はガチガチ
まずは日本。
単語レベルではそこまでガチガチではないものの、表現という意味ではかなり細かく決まっているようです。
単語は「道徳・倫理」のレベル
用語・単語レベルでは主に、差別や蔑視など人権に関連する用語、およびわいせつな言葉がNGとされているようです。
言葉自体に傷つき嫌な思いをする人がいるならば公共放送では使わないようにする、ということでしょう。
なお各方面を調べても完全な放送禁止用語リストは見当たりませんでした。
参考 放送禁止用語集
表現や言い回しはかなりガチガチ
その一方、「言い回し」についてはかなりガチガチに定められている模様。
「ラーメン屋」のことを報道では「ラーメン店」と呼ばなければならないなど、実に細かな表現規制があるようです。
参考 言論・表現の自由はどこに……「放送禁止用語」の厳しすぎる自主規制 | ORICON STYLE
先に述べた通り、リスクへの忌避性が高いのが日本人の国民性です。
おそらくクレームや批判があったそばから「NG表現集」へ追記する運用なのでしょう。 減点方式ってやつです。
昔の映画作品をテレビ放送する際も「表現の自由を重んじ、原作の表現を改変せずに放送しています」というキャプションをわざわざ出すくらいですからね。
アメリカの「放送禁止用語」はほぼゼロ
一方のアメリカ。
放送禁止用語という概念は存在しないに等しいです。
その理由は、より高位の概念である文化的なタブーで縛られているからです。
明確な放送禁止用語はfxxxのみ
放送禁止用語と明確に定められたものは本当に最低限。1語のみです。
Wikipediaによると
- 1970年代はにはSeven Dirty Wordsという放送禁止ワードが定められた
- しかし最近は表現の自由の風潮から、はfxxx意外は自由に使ってよいというのが実情
ということ。
「人として使うべきでない言葉」は明確になっている
かといって、耳障りの悪い言葉を好き勝手まき散らしてもいいわけではありません。
放送禁止用語という狭いルールではなく、より幅広い概念である「使うべきでない言葉」が定められているからです。
英語では「Profanity」もしくは「Swear Words」と呼ばれています。
どんな言葉があるか気になる方は下記のサイトからどうぞ。リストと代替する適切な言葉がまとめられています。
参考 Swear Word List, Dictionary, Filter, and API - NoSwearing.com
ProfanityやSwear Wordsに載っている言葉、実は日本人には理解できないレベルでマイナスな感情を刺激する強い言葉です。
ぼくがアメリカで長期滞在していた頃、知り合いの外人からよく
「車の窓からfxxx youと叫ぶと銃弾が飛んでくるから気をつけな」
と言われていました。いやほんとマジ顔で。
たとえば映画のセリフ。fxxxのほうが表現としては伝わりやすいシーンがあったとしても、同じ意味の別の言葉に置き換えられることがあります。
なぜならばセリフにProfanityが使われている時点で見る側が嫌な気分になり、映画自体の評判に影響するから。
それほどまでにProfanityはマイナスのチカラを持っているんです。
放送禁止用語に見える「自由と責任」のバランス
というわけで、放送禁止用語という意味でいうと
- 日本:ガチガチ
- 公共性の高いメディア
- 言葉狩りリスク回避
- アメリカ:ゆるゆる
- 出す側も受ける側も自己責任
- より広範な倫理・道徳
といった差があることがわかりました。
両者とも誰かが嫌な気分になる言葉は避けるべきという方向は共通しています。
しかしその実現方法(フィルタリングする箇所)や自由と責任のバランスポイントは文化や風土によって異なるってことですね。
まとめ:放送禁止用語から文化の違いが見えた
というわけで、日米の放送禁止用語の扱いの差について書いてみました。
人や文化が違うので、どっちが正しいかなんてありません。
ただ適切な言葉や表現を使うためのHowが異なっているだけ。
- 日本はルールで縛ることを通じて「和を以って貴しと成す」を実現する
- アメリカは人としてのルールは最低限に、発言の自由と責任を発言者に与える
ルールの中で安全に過ごすのと、責任とひきかえに自由を手に入れるのと、どちらが好きですか?