はてなブログの個人営利利用許諾は「悪」を飲み込む覚悟のあらわれなのか
このニュースを見て、久しぶりに当ブログの管理画面を開いたので、せっかくだからいろいろ買いてみる。
ブログ継続に収益は必要だ
個人の日記をネットに書くことですべて完結する時代ではもはやない。
ネットはもはや社会インフラであり、維持管理には金がいる。
その最細粒度がWebサイトであり、その一形態がブログなのだ。
ブログ運営・維持=コンテンツ製作には金がかかり、続けるのも当然、金がかかる。
これまでボランタリーで成り立っていたのは、規模が小さかったからにほかならないと思っている。
収益を得ることは、責任を伴う
一方、一般的に収益を得る行為は責任を伴うものだ。
収益とは価値提供の見返りである。価値を認められなければ収益は生まれない、というより生まれてはならない。
つまり価値を提供しなければならない、という責任が発生する。
100円払ったのに商品やサービスが提供されなければ誰しもが怒るだろう。
しかしブログに広告を掲載する場合、そこには2種類の責任がある。広告主に対する責任と、広告を見る人に対する責任だ。
広告主に対する責任とは、「見られる回数」「クリックされる回数」などである。見えにくい価値なので責任を感じにくいが、責任がないことにはならない。
一方広告を見る人への責任とは、広告を含む自分のブログがブログ読者に価値を提供していることに対するものだ。
この2つの方向性にそ、ブログにおける広告の難しさがある。
責任のバランスなき収益追求は悪を生む
それは、どちらの責任を重視するかでブログはEvilに堕ちる、という点だ。
たとえば読者への責任のなかには、ブログのコンテンツが信頼に足るものにすることも含まれるが、広告主への責任を重視しすぎるがゆえ、読者をないがしろにする記事があったとする。
たとえば、サービス内容を無視してアフィリエイト報酬の高い順にランキングを作っている記事や、事件の容疑者や芸能人の名前をあげつらってアクセスを集めるタイプの下品なトレンド記事である。
「(女優名)の離婚歴は!?」→「そもそも結婚してないので離婚歴なんてありませんでした!」
「(俳優名)に隠し子疑惑?元カノのFacebook写真も!」→「調べたけど見つかりませんでした!」
といった手合いだ。
このように、まったく価値がない記事、金に目がくらんだネットの害悪が生み出すゴミクズは、責任のバランスを失った利益追求の生み出すEvilである。
はてなブログは「悪」を飲み込む覚悟はあるのか
個人ブログに利益追求を許容するということは、上記のようなゴミクズが大量に「はてなブログ」にあふれかえることを公的に認めることだ。
個人のふりをしてアカウントを大量生産し、広告まみれのゴミ記事を大量生産する行いを「はてなブログ」は飲み込む、という意思表示である。
つまり、「はてなブログ=ゴミ記事量産サービス」と揶揄されるリスクを許容する、ということだ。
その覚悟が「はてなブログ」にはあるのだろうか。
(あるから営利目的を許諾しているのだろうけど)
まとめ
ぼくはもはや「はてなブログ」から離れて久しく、ネットの孤島で記事を買いて楽しんでいる仙人のような存在になっている。
なので「はてなブログ」がゴミ記事で溢れても、特段なにも感じない。対岸の火事である。
しかし仮に対岸の火事がこちらに流れ込んでくる局面が来るならば、黙っていられない。燃えたゴミを川に流されてこちらの岸が汚染されては困る。
ぜひ「はてなブログ」には、飲み込んだ悪がネットの海で毒にならないよう、できる範囲でがんばっていただきたい。