眠いときは10分ひらすら文章を書く目が覚める
今自分めちゃくちゃ眠いです。
ランチ後の眠気に襲われてます。
ついでに気圧が激下がり中なので、眠気の波も非常に大きいいです。
手のひらが温かいです。ベッドがあったら寝ちゃいます。
とてもじゃないけど仕事になりません。
でも実は大事な会議がこのあと2個3個・・・
寝た瞬間、準備が間に合わなくなります。
だから、眠気覚ましに文章を書く。
手を動かして、脳みそを揺さぶる。
脳は単純なので、助走さえつければ回るはず。
考えたことをダンプするだけでいい。
ひたすら書く。手を止めない。
この文章を書き終わったら、頭がスッキリしているはず。
準備はそのあとでも十分まにあう。
この10分は無駄ではなく投資である。
とはいえ、本当に眠ければ寝るべきなのも知っている。
「10分だけ眠る」という器用なことができればそれが一番。
コーヒーのカフェイン効果を利用して、それができるのも知っている。
しかし今は眠気がカフェインに勝る。低気圧時の眠気はそれほど強いものだ。
副交感神経が優位になり、脳みそがリラックス状態になっている。血管が拡張し、手先足先がやわらかな温かいものに包まれた感触になる。まぶたが自然と重くなる。呼吸は深くゆっくりになる。
フリーランスもしくは自宅での仕事であれば、このままベッドにダイブできるのだろうか。
羨ましい限りである。
ここまでひたすら文章を書いてみた。だ
いたい600字だが、まだ眠気が取れる気配がない。
このまま眠ってしまうのか。眠ってしまってもいいのか。
そういえば昔見た漫画に「人の眠気を吸い出す魔法の道具」があった。
吸い出した眠気を他人に注入すると、その人は元々の3倍眠くなるらしい。
今の自分の眠気を吸い出して、夜までとっておき、寝る直前の自分に注入したい。
それができたらどんなにいいだろう。眠気のポータブル化だ。
「あなたのかわりに眠ります」ビジネスができるかもしれない。寝ているだけで金が入る。
1時間1000円だとしたら、夜の8時間睡眠が8000円の収入に化ける。睡眠革命だ。
仕事に戻ろう。
Androidスマホ、Androidタブレット、Chromebookの使い分け
持ってるデバイスをスペック順に並べるとこう↓
— NAE@3倍速 (@naenotenet) November 26, 2018
スマホ > Androidタブ > Chromebook
でもこれが、触りたい順に並べるとこう↓
Chromebook > スマホ > Androidタブ
これが体験の差ってやつなんだと思う。
上記について補足してみる。
スマホ
常に手元にあるもの。すべての入り口。相棒。
なにも考えずサッと取り出し、指先を走らせてサッとしまう。
音楽を聞き、動画を見、本を読み、人に言葉を贈り、自分の考えを書き留める。
音声入力やBluetoothキーボードを接続しての文字入力を行うこともある。
Chromebook
ドンと腰を据えて作業するときに使うもの。仕事仲間。
軽く小さいもの(Chromebook Flip C100PA)を選んでいるがゆえ携帯性もよし。
ショルダーバッグにスルッと入れてカフェに入って開けば、そこが仕事場になる。
タッチパネル、トラックパッド、キーボード(ショートカットキー)の併用により超高速の操作。
効率を追うものごとをする場合はChromebook一択。
タブレット
実に中途半端な存在。
たしかにChromebookより軽いので携帯性は高い。
しかしAndroidタブレットであるがゆえ、PC向けショートカットキーやトラックパッドが使えず、UIがタッチのみなので具合が悪い。
ドラッグ&ドロップしたいときにできない。Alt+Tabでのアプリ切り替えに慣れない。Chromebookのほうが使っていて快適。
文字入力に特化した作業をしたければスマホ+Bluetoothキーボードで十分。画像編集ならスマホアプリでもできる。
「ただ荷物を軽くしたけど、大画面もほしい」「Kindleアプリで雑誌など写真メインのものを読みたい」といった、自分にとってはニッチなシチュエーションでしか価値が発揮できない。
実用割合
仕事/作業という意味では、
Chromebook > Androidスマホ > Androidタブ
使っている時間数で言えば
Androidスマホ >>>>>>> Chromebook > Androidタブ
まとめ
Adnroidタブ、やっぱりいらないんじゃないか説。
(約916文字)
社会的XXX
生物的な性(Sex)と社会的な性(Gender)が別概念と認められるなら、年齢・肌の色・髪の色、あらゆる身体的特徴を「生物的」と「社会的」に分けて考えることはできないのか。
そうすれば実は、生物的には30代中盤の日本人男性である自分も、社会的には10代後半の褐色ブロンドの女性にもなれるし、50代前半の白人白髪紳士にもなれるかもしれない。
というより昨今は、「己の属性より己の行動で己を語れ」という風潮が見受けられるので、属性よりむしろなにをやったか=社会的に認知される行動のほうが重要な気がする。
どう見られたいかに応じて行動を変える=見られたい自分ができていく。
Javaには、モノの特性をあらわす「クラス」という概念があるが、それとはほかに、モノのふるまいをあらわす「インターフェース」いう仕組みがある。
たとえば「ヒト」というクラスに対し、「イヌ(ワンと鳴く)」というインターフェースを与えたとする。する実体はヒトであっても、「イヌ」としての行動特性を備えているがゆえ、そのヒトを「イヌ」として扱える。
「ガーと鳴いたら、その実体はさておき、それは鴨なのだ」的な言われ方があるくらいだ。
おもしろいのは、「クラス」は唯一の親クラスしか持てないが、「インターフェース」はなにをいくら与えてもよい点。
実体がヒトであっても、イヌになりたければ「イヌ」インターフェースを持てばよし。「ネコ」も「ウマ」も「キリン」でも、いくらでも実装できる。(もちろんそれなりの機能を備える必要はある)
コレは実は、先に述べた「属性と行動」「行動で己を語れ」と同じ話。
自分の属性より、自分にどのようなインターフェースを実装するのか、つまりなにになりたくて、だからこそどのよな行動様式を取るのか。
つまりやはり「なにをするか」が大事なのではないかと思う。